人月とか残業とか仕事量とか

今日帰りに電車で同僚と話した話。酔った勢いでてけとーに書いてみる。論理とか飛躍してそうなんでそこんところは適当に突っ込んであげてください。

人月

今日帰りの話の中で一番驚いたのが、この話。
同僚の話によると、「給料を人月以上もらって働いている人なら、まぁ残業してもいいんだろうけど、例えば、○○さんは毎日12時すぎて残業して、成果だしてるじゃん?その人の人月はその12時すぎて残業している分で計算されてるのがムカつく。」
おいおいおいお。そりゃおかしいだろ。前半部分はまぁおれも同意だけど、後半は確かにムカつくわ。明らかに倫理に反しているし、明らかに『その人を使って、本当に成果を出そうとしているのか』と言う点にも反している。

一緒に帰った同僚は作品のクオリティにこだわる人のようで、それじゃクオリティの高いもの作れないだろ?と。納得。ギリギリの人月で仕事請けてクオリティを上げようなんだなんて正気の沙汰じゃない。『もっといいモノを作ろう!』お前はどの口から言ってんの?

ただ、この話には恐らく日本人特有の協調主義が影響しているんだと思う。

残業

例えば残業にしてみても、いつも思ってるんだが、みんな定時に帰らない。これは去年の新人時代から思っていることだが、『先輩が頑張っているのに新入社員の俺たちが早く帰るわけにはいかんだろ。』という台詞がある。いやいや、先輩からしてみれば、『新入社員のお前らが頑張ってるんだから俺たちが頑張らないと示しがつかんだろ。』と。なんという無限ループ。

この辺りも日本人特有の協調主義。

仕事量

自分は2年目にしてそれなりに人の上に立っていたりするのだが、仕事を頼めばこう返ってくる。『全然大丈夫だよー。』、『うーん、なんとかやってみるよ。』と。前者はまぁ時間に余裕があり、プライオリティの高い他の業務が突発的に入らない限りはスケジュール通りに事が進む反応。後者は正直言ってアウト。頑張ってクオリティはそれなりのものを上げてきてくれるが、残業を強いることになり、正直言って、現場にも立っていて人の上に立っている者からしてみれば、それほど『そこまで頑張らなくてもいいのに・・・。』と思ってしまうものである。

Noと言えない日本人

なぜこのようなことが怒ってしまうのか。それは題名のとおりNoと言えない部分にあるのではないだろうか。このことについては恐らく他者のエントリでも多くが言及されてあるためあえては言わない。

仕事を請け負わせる立場(正直、責任はあまり問われない立場なのだが)にしてみたら『No』といわれずに仕事を任せることは正直不安が残る。ただ、やはりそれでも他に当てがないため、頼んでしまったりもする。ただ、そこで『No』という言葉が出てきてくれれば『じゃあ上に相談してみるよ』という話にもなるし、他に時間のある人でこの仕事に興味がある人を引っ張ってきたりなどの対応処置も可能だ。
仕事を請け負わされる立場としては『No』とは言い辛いがやはりそこは自分のキャパを定時でできる仕事量以上で越えていれば『No』と言うべきなのではないだろうか。一時的には会社にとって不利益でも、その『No』ということで設けることができた時間で成長することができる。仕事をすることだけが成長へのステップじゃないし、自分は仕事は成長することへのきっかけでしかないと思っている。だから自分は早く帰って、先輩たちの助けを早くできるように毎日少しずつでも勉強をし始めるようになった。もしその為に給与が少なくなっても自分はそれでいいと思っている。だって先輩たちに食べさせてもらっている立場なんだから。

まとめ

結局このおかしなサイクルを崩すためには個人個人が自分のキャパを認識して、仕事に当たるしかないと思う。もちろんそこで『No』というための勇気も必要だ。ただ、それは個人単位の動きでは変えることはなかなか難しいだろう。上に現場の声を届けていかない限りは変わらない。社長や重役がいくら現場を見ているとしてもそれは外から見ているのであって、現場の中に入っているわけではない。必要なのは現場の声だ。
今回一緒に帰った同僚はいわば現場と重役の橋渡し的存在でもある。彼の頑張りに期待する自分もいる一方、やはり自分もプログラミング以外の何かで会社の人間のために動いた方がいいのかなと思ったりもした。
自分ももっと上の人に意見を投げかけるべきなのかもしれない。